石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


明治天皇 @ 『45年間に66回も来県』
原文

明治天皇は、こ在位四十五年の間、神奈川県へは六十六回、そのうち横須賀へは、十六回もおいでになられた。 最初は明治四年(1871)十一月に横須賀造船所のこ視察。 次いで翌五年は海路を浦賀へ。 この時は軍艦に試乗されるためだった。 交通機関は、四年は品川から船で。 翌五年九月には新橋ー横浜間に鉄道が開通したので、六年は横浜まで汽車、横浜からは船。 二十三年六月の横須賀線の完成後は、もっぱら汽車だった。 当時の記録によると、駅から横須賀鎮守府(今の米海軍基地司令部)への道のりは、「御料の馬車二移ラセラレ停車場ヲ御発、 御順序ナル港町通り左へ幸(ミユキ)橋ヨリ汐留及ビ元町通り左へ鎮守府二御着」とある。 明治四年十一月二十一日は天気快晴。 天皇は浜離宮からご乗船。 今の米海軍基地にあたる造船所をこ視察後、向山の行在所でお泊まりになった。 翌日は造船所育ての親、ウェルニー、サベジー、ナポジーらをねぎられた。 その時のお言葉は、「造船ノ諸場ヨク整備ココニソノ基業ヲ創立ス。朕(チン)イマ巡覧、悦喜二タエズ。 コレ偏(ヒトエ)二汝(ナンジ)ハジメノ勉力二依ル。朕フカク、コレラ嘉賞ス」。 向山の行在所とは、今の横須賀幼稚園の所にあった海軍官舎を利用されたもの。 園内には、記念碑があり、「聖蹟」の文字は、加藤寛治(ひろはる)海軍大将の書である。
原本記載写真
ご在位45年の間、明治天皇は、軍艦の進水式などのために横須賀へは16回おいでになられた。 写真は、向山行在(あんざい)所跡にある記念碑。 市内本町3丁目、横須賀幼稚園の庭にある

明治天皇 A  『庶民に接した天皇』
原文

富国強兵の時勢であった。 明治天皇が横須賀においでになった中で、親しく庶民に接しられたのは、観音崎への時である。 明治十四年(1881)五月十八日、船で浦賀へ。西叶(かのう)神社の境内にあった西岸小学校でご休憩。 今ここには、「明治天皇駐蹕(ひつ)の碑」がある。 この碑は昭和三年の建立、当時の明治神宮宮司、一戸兵衛陸軍大将の書による。 浦賀町宮下の十三歳になる鹿目常吉が、せん茶を献上、水は斉藤伝六の井戸水を用いた。 天皇は乗馬姿で観音崎へ。 要塞(さい)建設の工事をこ覧になり、鴨居の高橋勝七塚でこ休憩。 かつての県教育会の御損調査によると、同蒙の記録には、「午後二時五分本村通御、観音崎天覧、 同三時五十分拙宅御小休、同四時御出馬にて横須賀藤倉へ御一泊、翌十九日朝同所に於て、 徳大寺宮内卿より金弐拾円、白羽一重一疋(ぴき)を奉戴す」とある、という。 馬上豊かに天皇は鴨居を立たれ馬堀、大津、平坂へと約八`の道を進まれ、午後六時に港町の藤倉五郎兵衛家へ。 ここは新築早々の旅館で、海沿いの景勝地。 明治二十九年、海軍軍需部建設のあおりをくって取り払われた。 ごー行の中には、有栖川宮をはじめ岩倉、大山、大隈、山県、西郷(従道)らが名を連ねている。 藤倉家の前では、地引き網や花火の打ち上げ、さらに消防夫がはしご乗りを演じて、天皇をお慰めした、という。 今の横須賀駅寄りの臨海公園あたりだろうか。
原本記載写真
明治14年(1881)5月、明治天皇は観音崎においでになり、建設中の要塞(さい)をご覧になった。 写真は、駐蹕(ひつ)の碑がある西叶(かのう)神社(横須賀市西浦賀町)。 天皇はここで休憩なさった

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参考文献・資料/リンク
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