石井 昭 著   『ふるさと横須賀』


ボーイスカウト @  『大正10年スタート』
原文

明治四十年(一九〇七)夏、イギリスのべーデン・パウエル卿(きょう)がブラウンシー島で、二十一人の少年たちに実験キャンプを試みた。これがボーイスカウトの始まりである。その指導法は欧 米諸国で採り入れられ、特にアメリカでは、全国的に組織された。翌四十一年に、早くもわが国では、牧野文部大臣の指示で、広島高等師範学校長北条時政がスカウト指導法を研究、四十四年に陸軍大将乃木希典(まれすけ)がパウエル卿と会見、スカウト活動を視察した。その翌年に、パウエル卿が来日した。 大正九年(一九二〇)、第一回世界ジャンボリーがロンドンで開かれ、日本から三人が参加。十一年には、少年団日本連盟が結成、総裁(後に総長)に後藤新平が、理事長にニ荒芳徳が就任した。 連盟は、昭和十年に大日本少年団連盟と改め、十六年には政府の方針で、大日本少年団連盟に統合されたが、戦後は、ボーイスカウト日本連盟となった。 ここで、横須賀市内のスカウト活動を語ろう。大正十年(一九二一)四月に、当時の汐入尋常小学校十五代校長の飯塚蔵之助によって、汐入少年少女団が誕生したのが始まり。十三年一月に、連盟へ第百三十八号として加盟、団名を、日本連盟横須賀少年少女団とした。 指導者は、団長が十六代校長原田吉蔵、副団長が教頭永島徳治(のちの団長)、訓導の尾形新太郎ら教員。団員は三年生以 上の児童が選ほれ幼年、少年、少女の各団員となった。「そなえよ常に」をモットーに、三本指の敬礼であいさつした。 太平洋戦争が始まる昭和十六年までは、団員の指導に、同校訓導の秋野朗、三竹豊三、冨田波之助、桜内徳太郎、飯野房雄、新倉幸夫、岩崎正郎ら教員の皆さんが当たった。特に桜内さんは、戦後のスカウト活動再建に貢献、日本連盟理事に、その名を連ねた。
原本記載写真
横須賀市内のボーイスカウトは、大正IO年(1921)に市立汐入尋常小学校から始まった。指導者は同校の先生方で、団員は 3年生以上の選ばれた子供たち。モットーは「そなえよ常に」。写真は、指導者の昼食(昭和5年7月、箱根仙石原で)

ボーイスカウト A  『15団千四百五十人に成長』
原文

花は かおるよ
花の香に
日は輝くよ 日の光
われらに 名誉の
おもきあり
かおりか 光か
ああ 名誉
名誉 名誉
おもきぞ 名誉
フレ フレ フレ
スカウトわれらの
名誉ぞ おもき
これは大正十一年(一九二二)制定の「花はかおるよ」の第一章。愛唱される日本連盟歌である。 昭和五十八年四月現在、横須賀地区のボーイスカウトの団は十五を教える。その現状を、地区協議会の会長高地光雄さんをはじめ、役員の岩瀬栄さん、藤井慶治さんにお話をうかがった。 団の内訳は、横須賀一(下町)四(安浦、上町)十一(池上、衣笠>十二(迫浜、長浦)十四 (大津、三春)十五 (田浦、船越)十六 (迫浜、鷹取)十七、十ハ (浦賀、鴨居)十九、二十 (久里浜) 二十一 (三春)二十二 (衣笠)と三浦三、五の各団。内訳はスカウト九百六十六人、リーダー二百八十五人、団委員百九十一人である。 スカウトは発達段階に応じて、次の四つに分かれる。
◆「カブスカウト=(小三から小五)四百三人(うさぎ、しか、くま、と進級、ほかに銀矢章と金矢章も)。
◆ボーイスカウト(小六から中三)四百十二人(初級、2級、1級、菊と進級、ほかに特修章と技能章も)。
◆シニアスカウト(高校生クラス)百二十五人(シニア、隼(はやぶさ)、富士と進級、ほかに技能章も)。
◆ローバースカウト(大学生クラス)二十六人。
スカウト最高の「富士」を目指す「隼」は十一人。 横須賀市内でー番若い団は、十一団から分かれたニ十二団。団委員長は平作長にお住まいで名指導者のー人、南雲重雄さん。 「団員は五十九人。二年後のシニア隊に備え、指導者養成に力を入れています。 私は日本連盟のりーダートレーナーも務めているので、その体験を生かしてがんばっています」と、おっしゃる。
原本記載写真
横須賀地区のスカウト活動は6年の伝統がある。写真は、市立汐入尋常小学校にあった少年少女団のスカウトたち。前列左寄りで黒犬を抱いている人が、桜内徳太郎さん。戦後、日本連盟理事となられた人(昭和6年7月、箱根仙石原で)

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